沼とは?
何かに夢中になると言う意味で使われる「沼」。漫画や玩具、舞台、文具、書籍など夢中になれるものならなんでも沼の対象になるといっていいでしょう。
「沼にハマった人=沼に住む人」は、対象への愛情表現として、関連する商品やイベントなどに惜しみなく金銭を投じることがあります。また、沼にハマることを「沼る」と独特の表現を用いることも。
そんな沼に住む人が愛するモノには、どのような魅力があるのでしょうか。

「書き心地」という自分の知らない世界に沼った!
日頃から紙に書いた文字を写真に撮ってSNSに投稿することで、同じ紙沼にいる住人との交流を深めている森田さん。印刷会社に23年間勤め、会社公式SNSの「中の人(※管理者)」でもある彼が紙沼にハマったのは、意外にも最近のことだとか。
「印刷会社勤めなので、紙に触れてきた時間は長いと思います。でも、あくまで仕事として接してきたからか、沼としてどっぷりハマることはありませんでした」
森田さんの会社で印刷するのは、付箋やカレンダー、販促用のチラシなどの商業媒体がメイン。あくまでも「情報を載せるための紙」なので、書き心地という観点で紙を選んだり調べたりすることはほぼなかったそうです。
「むしろ紙には苦手意識がありましたよ。もともとは、漫画雑誌などの出版物を刷る仕事をしたくてこの業界に入ったんです。もちろん一連の業務のなかに紙選びは含まれますが、愛着があったかというと全然なくて。それどころか、商業印刷で使う紙は印刷がかすれたり、よれたりすることもあって、『紙って扱いが難しいんだよ』とか不満を口にしていました(笑)」
そんな森田さんが紙沼にハマったのは、自社でノートを製品化して販売することになったことがきっかけでした。
「『印刷会社がノートを作ったら面白いんじゃないか』という話になり、オリジナルのノートを製品化することになって。用紙を選ぶ段階で初めて、紙によって書き心地がまるで違うことを知ったんです」
「書く」ためのノートと、「読む」ための印刷向け用紙の書き心地が違うだろうことは想像できます。ですが、ノートで使われる紙の種類によっても、インクの乗り方や透け具合などに大きな違いがあるそうです。
「ガラスペンやカリグラフィーペンといった、様々なインクで試し書きをしたんです。実は、紙の裏にインクが抜けるかどうかって、やってみないと分からないことなんです。そこで、紙によってインクのにじみ方やペン先の引っかかり具合が違って、そこに味があるんだと気がついたのが、紙沼にハマるきっかけでした」

SNSの口コミなどで、紙の種類による違いを調べていくうちに、世界的にも人気のある紙を製造している会社が勤務先の近くだったそうです。
「驚きましたね。正直に言うと、以前にその会社の紙を選んだときは『薄くて刷りにくいなあ』という印象しかなかったんです。一方で、自分が知らない書き心地の世界では物凄く評価されている。これも何かの縁だと思って、ノートには、その会社の紙を採用することにしました」
紙の名前を伝えるだけでノートが一気に売れた
しかし、沼にハマったきっかけとなったオリジナルノートは、本当に売れるかどうか心配だったそうです。ところがある日、地元の文房具屋さんに声をかけたところ、返ってきた回答は「製造した部数すべてを買う」とのことでした。
「営業といっても、使用している紙の製品名を伝えただけですよ。印刷会社に勤める立場として恥ずかしながら、紙単体でここまで認知度があるものなのかと。魔法の言葉みたいで感動しましたよ」
「書く」用途を知って初めて本当に好きになれる

沼にハマる前と後では、紙の厚さや質感を見るときに使用する「紙見本帳」との距離感も一変しました。単なる営業用資料としてではなく、どんな特徴の紙なのか、書き具合を確かめて遊ぶようにもなったといいます。
「印刷会社勤務ですが、僕はペーパーレスを推奨する側の人間だったんです。経費削減のためにタブレットとか電子媒体の使用を推して、紙を使用する機会を減らそうとしていたくらいです。今でもできるだけ無駄な紙は減らそうとしていますが、余白を使っていたずら書きをしていると時間を忘れるくらい楽しいですね」
以前から、お気に入りの紙は色々あったそう。しかし、試し書きしてみたらインクが裏に抜けてしまい、「書く」用途では使いづらい紙も多かったといいます。一見、書き心地の良さそうな紙でも、実際にインクを使ってみて初めて分かることもあるようです。紙沼の住人には「インクの裏抜けはチェックポイントとして重要」だとか。

触覚・視覚・聴覚をフル動員して味わい尽くせる紙の魅力

ここからは、森田さんの好みを軸に、深すぎる紙沼の魅力を紹介していきます。
好きな紙の触り心地は「ツルツル、すべすべ」
普段はあまり気にとめませんが、紙にはグレーや黄色っぽいなど、種類によって色合いに特徴があるそうです。
「そのなかで僕は特に、真っ白くて、インクはすぐには乾かないけど、ツルツルすべすべした手触りの紙が好き。インクがきれいに乗ってくれて、裏にも抜けない紙です」
音や感触も重要な沼ポイント
見た目や使い勝手だけが紙沼の魅力ではないそうです。
「紙を触ったときのペラペラ、パラパラという音やめくるときの触り心地が好きですね。紙を触った感触が、ザラザラしているとかツルツルしているとか。お札を数える際の質感が楽しいって人もいるから、たぶんそういう感覚です(笑)」
書くだけではない実用性も魅力
紙の用途は筆記だけではありません。
「折り紙として遊ぶための使い方はご存じですよね。ほかにも、置いておくだけで空気清浄を果たす紙製品もあります。また、これだけ色々なものがオンライン・バーチャル化するなか、その反動で、手で触れられるもののブームが起こりそうな予感がしています。紙もそのブームに乗っかって広がる可能性があるんじゃないでしょうか」
10年後にまた会えるとは限らない
今使っている紙は、20年、30年前の紙とは書き心地が変わっていることもあるそうです。
「昔の紙の方が良かったなあと思うこともあります。紙を製造する機械が壊れちゃうと、機械の部品自体が廃盤になっていることがあって、完全に元通りには直せない。そのせいで、紙の質感が変わってしまうこともあります。つまり、再現できない質感があるんです。沼の住人の間では昔の著名な紙について、一度でいいから書き心地を知りたかったな、なんて話が出ることもありますよ」
沼にハマると、魅力を発信することも楽しくなる

SNSにおける紙沼の住人同士の交流から、魅力に気づかされることもあるそうです。
「例えば、罫線がインクをはじくノートって、文字が途中で切れるから書く目的だと使いにくいんです。でもそんなインクを弾くところを活かした絵もある。SNSでその使い方を見てなかったら、『使いづらいな』としか思っていなかったかもしれませんよね」
森田さんも自社の公式Twitterで、「Mr.iikagen」というアカウントを使い、インクで書いた文字の写真を「#手書きツイート」というタグを付けて投稿しています。企業にとってSNSは広報活動の一つともなりますが、「あまり宣伝らしいことはしたくない」と考えているそうです。
「もちろん会社としては宣伝も必要ですが、それよりも色々な紙の使い方や、ノートに手書きする楽しさを第一に伝えています。きっちり直線の罫線に従わない、固定概念にとらわれないノートの使い方みたいに、『自由に、緊張せずに、だいたいでいいんじゃない?』って。そんなゆるい発信が受け入れられているみたいです」
沼の住人になり、仕事がより楽しくなった
また紙沼にハマってからは、営業担当として自社の製品を売るモチベーションにも変化があったそうです。
「『この紙はここがすごいよ!』って、本当に素直な気持ちで伝えられるようになりました。自分が試した紙の書き心地を味わってほしくて、『とにかく使ってみて!』って紙の魅力を伝えるのが最優先で、売上は二の次になっちゃって(笑)」
森田さんをはじめSNS担当メンバーは、紙やインク、ガラスペンなどの試したいと思った筆記用具は、次々と自分たちで購入しているそうです。
「文房具店に売り込みに行ったはずなのに、欲求に駆られてペンやインクを買って帰るなんてよくあることです。もちろん会社に申請する手順を踏んで、備品として揃えてもらう方が仕事として正しいでしょうね。ただ、『欲しい』と直感にしたがって自分で購入した道具だからこそ、仕事を超えた、書く楽しみや遊び心が広がるんじゃないかなと思っています」
さらに、ノートを開発する過程を経て紙の魅力に気づいたことで、同僚たちとも意思の疎通がしやすくなったといいます。
「ノートを開発したことで、みんなが紙の質感などに興味を持つようになり、書き心地など感覚的な部分が互いに伝わりやすくなりました。新作の紙見本帳が出たときなんか、みんなで集まって試し書きして楽しんだりするようになったんです」
製紙会社の担当者とも紙について頻繁に話すようになったという森田さん。「この紙の質感をツルツルとした質感に改善できないか?」とコアな話ができるようになったそうです。

長年仕事として触れ続けた紙に、まさか沼るとは思わなかったという森田さん。苦手意識すらあった紙ですが、大きく見え方が変わることもあるようですね。
「紙の魅力に気づいてからは、紙の質感とか使い勝手とか、同僚と盛り上がる話題が増えました。自宅に帰った後も『今日は時間があるから試し書きをしよう!』って、プライベートを楽しむ原動力にもなるんです。仕事と趣味の境目が曖昧になる日が来るなんて、夢にも思わなかったです」
この人に聞いてみた

森田 洋正さん
Twitterアカウント「ナガハシ印刷株式会社【公式】(@nagahashi_print)」内で、「Mr.iikagen」として紙の書き心地やインクの魅力を発信する。
ライタープロフィール

編集者・ライター。ペロンパワークス・プロダクション所属。漫画・アニメ・映画などポップからサブカルチャーまで幅広いエンタメ分野の記事執筆・コンテンツ制作に携わる。
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