言葉の正誤を押しつけられたくない。沼の人vol.2「国語辞典」編

言葉の正誤を押しつけられたくない。沼の人vol.2「国語辞典」編

言葉の正誤を押しつけられたくない。沼の人vol.2「国語辞典」編

人によって異なるこだわりや欲求から、気づいたらハマっている沼。シリーズ第2回目の今回は、日本語の意味を探求してハマる「国語辞典沼」の魅力について、国語辞典を編纂する言葉のプロ、飯間浩明さんに聞いてみました。

なぜこれほどまでに辞書に魅了されるのか?

インターネットで検索してすぐに言葉の意味が調べられるようになった昨今、自分自身の国語辞典を持たなくなっている人も多いでしょう。


しかし現代でも、国語辞典の魅力に惹かれ、日頃から手にとって楽しんでいる人々が少なからずいることはご存じでしょうか。

といっても、彼らは必ずしも「言葉の意味を調べる」という目的だけのために辞書を使っているのではありません。小説や詩集のように、読み物として語釈の表現を味わったり、複数の辞書の語釈を比べたりして、辞書を楽しんでいるのです。

今回は新しい言葉の使い方や意味を追いかけ、国語辞典へとまとめる辞書編纂者の飯間浩明さんに、意味を調べるだけではない辞書の「沼る」魅力を訊いてみました。

国語辞典編纂者の飯間浩明さんにZOOMでお話をうかがいました。
国語辞典編纂者の飯間浩明さんにZOOMでお話をうかがいました。

映画を観るときも暗がりでメモ帳に記録

飯間さんは国語辞典編纂者として、様々な言葉を採集し、より多くの人に伝わる語釈の研究を重ねています。また「国語辞典ナイト」という辞書で遊ぶイベントなどへも登壇し、国語辞書の面白さを伝える活動もしています。そもそも飯間さんが言葉に興味を持つようになったきっかけは、幼い頃、自分の知らない言葉が世のなかにたくさんあると気づいたことでした。

「例えば幼稚園ぐらいの頃、つけっぱなしのテレビから、大人が『あくまでも……』と言ってるのが聞こえてきました。思わずデビルの『悪魔』を連想しました。そんなふうに、今まで知らなかった『大人語』に触れるのがとても好きでした。小学校や中学校でも、本に出てくる文学的表現とか、古い熟語とか、知らない言葉を覚えていくことに喜びを感じました。気がついたら、大学院まで行って言葉の研究をしていましたね」

夏目漱石や芥川龍之介の作品は中学の頃から好きで、必ずしも内容が理解できなくても、知らない言葉に出合えるという理由で読んでいたと言います。読書には、ストーリーを追うだけでなく、言葉と出合う楽しみもあるんですね。現代ではあまり使われない明治・大正時代の表現に触れることは、読書以外では難しいかもしれません。

大学院を終えるか終えないかという頃、外部執筆者として『三省堂類語新辞典』の編纂に関わります。その後も言葉の研究を続けつつ、今度は編集委員として『三省堂類語新辞典』に携わることになります。

「『類語新辞典』では、言葉を説明するのはもちろんですが、各ページの下欄に名言名句を掲載することになりました。しかもその名言名句は、そのページ内に収録された項目を含むものに限定したんです。例えば『我(われ)』という項目のあるページには、小林一茶の『我と来て遊べや親のない雀』という俳句を載せる。私はその文句をあちこちから集めてきたんですが、その作業が、大変だけど楽しかったんです。言葉を集める仕事は性に合っていると思いましたね。それが私の辞書編纂の出発点になりました」

※飯間さんが携わった『三省堂類語新辞典』(外部サイト)より

※飯間さんが携わった『三省堂類語新辞典』(外部サイト)より

そんな飯間さんは、職業柄、日々体験するあらゆる物事を、もっぱら言葉の面から見てしまうといいます。

「いつも言葉に注意していないと、辞書に載せるべき言葉に出合うことはできません。それで、例えば映画を観るときにも、スケッチブックを用意して、気になった台詞などを書き留めていくんです。暗がりで手元がまったく見えないので、左手の指でスケッチブックを押さえて、台詞を1行書き留めた後、次の行へ指をずらして、次の1行を書くという技が身につきました」

「あるいは食事に行くと、おいしい料理を楽しむのはもちろんですが、『この味は辞書で説明するとしたら、どう書けばいいのかな?』なんて考えてしまう。なんだか、言葉の資料を集めるために食事をしているみたいですね」

ただ意外にも、飯間さん自身は『辞書沼』の住人ではないといいます。

「辞書の仕事をしているからには、もちろん、辞書沼の人々(ファン)のことは仲間として意識しています。ただ、私自身は、自分の携わる辞書には詳しいと思いますが、辞書沼の人々ほどいろんな辞書を深く読みこんではいないし、辞書をたくさん集めてもいない。多い人は数百冊から数千冊の辞書を集めていますが、私はそんなに持っていません。辞書沼に浸かるというよりは、自分自身が穴を掘って、そこに沼を作ってやろうという感覚かな」

辞書は言葉の正解が一つでないことを教えてくれる

辞書は言葉の正解が一つでないことを教えてくれる

辞書沼にハマる人々の心理とは、一体どんなものなのか。飯間さんは『正誤を押しつけられたくない。』ということではないか、と答えてくれました。

「辞書沼の人々が、なぜ辞書をたくさん集め、読み比べるのか。あたり前ですが、それぞれ書いてあることが違うからです。言葉に唯一の正解しかないと考える人ならば、辞書の読み比べなんかしませんよね。もし『これが正解だ』と誰かに押しつけられたとしても、色んな辞書を見ると、必ずしも意見が一致していない。多くの辞書を読み比べることで、言葉の意味や用法は一つに決まらないというゆるさに安心する。辞書沼にハマった人は、言葉の使い方に関して寛容になっていくんです」

「もちろん、言葉はどう使ってもいいというのではありません。自分勝手な意味用法で言葉を使っては、相手に伝わらなくなってしまいます。ただ、同じ言葉でも、状況によっていくつもの意味用法がありえます。それぞれの辞書が、独自の観察に基づいて、『こういう使い方もありますよ』と、言葉の多様性を教えてくれるんです」

辞書の中身は、作り手(出版社・著者)によって違うだけでなく、版によっても変わります。辞書は数年置きに改訂されますが、新しい版は、それまでの内容よりも、もっと適切な、もっと時代に即した内容に改められています。

「辞書沼の人々は、辞書の作り手によって説明が異なることや、時代によって説明が変遷していることを発見するのが好きです。改訂版の説明の良し悪しについても、的確に批評してくれます。『この説明はおかしいですね』なんて言われると、作る側としてはヒヤッとします(笑)。とても勉強になりますよ」

辞書を黙々と読んで楽しむという趣味は、鉄道やワインなど、ファンの多い趣味に比べると、理解されにくい面はあるかもしれません。でも、いくつもの沼に吸い寄せられる筆者も、ページをめくって辞書ごとの表現の違いを探しては、一人でにやりとしながら国語辞典を楽しんでいます。

「大学などで辞書を楽しむサークルを作ろうとしても、人集めに苦労するでしょうね。その点、SNSは、マイナーな趣味の人同士でもつながることができる。辞書沼には年齢や職業を問わず人が集まっているようで、和気あいあいとした穏やかな雰囲気を感じます」

和気あいあいとした穏やかな雰囲気を感じます

沼の住人同士で辞書保管用の部屋を借りることも

紙の辞書は1冊1冊がかさばり、場所を取ってしまいます。版元の違う辞書やそれぞれの版をそろえていくと、想像以上に本棚を圧迫するのです。

「一般に、学生時代に持っていた紙の辞書は、大人になるといらなくなって、ネットオークションや古書店で売る人も多いですね。高く売りたいというより、邪魔だから売るんです。それで、辞書沼の住人からするととても貴重な辞書が、数百円で売られたりしています。安く手に入るからこそ、気軽にコレクションできる面もあります」

ただ、その安い金額でどんどん辞書を買っていくと、やがて置く場所に困るようになります。そこで辞書沼の住人同士がお金を出し合い、辞書を置くためだけに部屋を借りたりもしているようです」

SNSでのつながりから、共同で部屋を借りるというオフラインでのつながりに発展することがあるんですね。ほかの沼でもSNSでの交流は盛んですが、「辞書部屋」を借りるというのは、共通の悩みを抱える辞書沼ならではの行動パターンといえるのかもしれません。

でも「紙」の国語辞典に未来はない

沼の住人には、紙の辞書のインクの匂いやページをめくる感触、さらには文字のレイアウトや装丁のできばえを楽しむ方も多いのだそうです。

「辞書ファンが注目するポイントの一つに、表紙やケースの色があります。初版以来、色遣いを大きく変えずに、イメージカラーとしている辞書もあります。『この辞書の色は高級感があっていい』などと、色をめでるファンも多いんです。版元にはぜひイメージカラーを大切にした装丁をお願いしたいですね」
「辞書ファンが注目するポイントの一つに、表紙やケースの色があります。初版以来、色遣いを大きく変えずに、イメージカラーとしている辞書もあります。『この辞書の色は高級感があっていい』などと、色をめでるファンも多いんです。版元にはぜひイメージカラーを大切にした装丁をお願いしたいですね」

もっとも飯間さん自身が使う辞書は、電子版がメインで、紙の辞書は電子版がない場合にしか使わなくなったそうです。電子版のなかには、年会費を払って利用するサブスクリプション版もあります。飯間さんは、紙版を持っていても、普段はサブスク版を使うといいます。

「電子版は、紙版に比べれば検索性が圧倒的に高いし、便利な機能も多い。今や、『紙の辞書をもっと使いましょう』と言っても、利用者には響かない状況です。それよりも、電子版の内容や機能をより充実させて、『今の辞書はこんなに魅力的です』と訴えるほうが、利用者によほどアピールします。私は『紙の辞書は死んだ』と言っています。関係者に嫌な顔をされるんですが、確信犯です」

「恋愛」の意味も20年前と今では違う

インターネット上の無料サイトで言葉が簡単に調べられる状況は便利な反面、危うさもあると、飯間さんは指摘します。言葉の説明の仕方は一つではなく、辞書ごとに見解の違いもあるのに、そのことが気づかれないままになってしまうからです。

「『この言葉の意味はこうだ!』と一つに決められてしまうのは、危ないと感じています。例えばGoogle検索で『恋愛とは』と入力すると、出典の表記はありませんが『男女間の、恋いしたう愛情。こい。』と一つだけ答えが出てきます」

「ところが2014年の『三省堂国語辞典 第七版』では『(おたがいに)恋をして、愛を感じるようになること』と、『男女』という表現を使わずに説明しています。また、今年9年ぶりに改訂された『新明解国語辞典 第八版』でも『特定の相手に対して……』と、やはり『男女』を使うのはやめています。最近はこうした辞書も増えているんです」

※改訂された『新明解国語辞典 第八版』広告より
※改訂された『新明解国語辞典 第八版』広告より

「『恋愛』に限らず、どの項目も、より正確に分かりやすく説明しようと、それぞれの辞書が競っています。Googleで検索した結果だけが正しいとは言い切れないわけです。日本語を使う人々の多くがネット上の無料辞書だけですませているとしたら、残念ですね」

言葉の意味の捉え方は一つだけではない。そのことを示すためにも、異なる版元の辞書が、多くの人に使われるようになって欲しいと、飯間さんは話します。

「辞書は、もっともっとおもしろいコンテンツにならなければいけません。辞書編纂者や出版社といった辞書関係者だけでなく、プログラム開発者、ゲームクリエイターなど、多様な人々に集まってもらって、ユーザーにとって魅力あるモノを作る議論をしていかないと。『この言葉の意味はこうだ』と上から目線で教えを垂れるだけの辞書は、そろそろ相手にされなくなりつつあります」

「辞書のことを一般の人にもっと知ってもらおうと、『国語辞典ナイト』というトークイベントを、これまで何度か開催しています。辞書ファンの登壇者たちが辞書にツッコミを入れたりして、笑って楽しめるイベントです。『辞書には興味なかったけど、友達に誘われて参加したら、とてもおもしろかった』という感想も多く寄せられています。色々な機会を捉えて、辞書について考える機会を、多くの人に持ってもらいたいんです」

辞書が人々に支持されるためには、辞書を作る側と、利用する側との交流が大切だと、飯間さんは考えています。利用者の生の声が投稿されているSNSなどもリサーチの対象にして、同時代の人々が知りたいと思う疑問に応えられる辞書をめざしているそうです。

最近面白かった言葉は「リモート映え」

最近面白かった言葉は「リモート映え」

辞書に採用するかどうかはともかく、現在使われている言葉は、とにかく片っ端から採集する。それが飯間さんの方式です。一時的な流行語だと思って軽く見ていたら、意外に定着することもあります。どういう経緯で定着するのか、観察を怠けるわけにはいかないといいます。

「少しだけ泣く様子を表す『ぴえん』は、今は流行語扱いされていますが、数年経てば定着するかもしれません。今年は『ウェブ面(ビデオ通話などウェブを通して行う採用面接)』とか『リモート映え(ビデオ通話の画面で見栄え良く見せること)』とか、関心を引かれる言葉がたくさんあります。『リモート映えするナチュメイク』というのを見かけましたけど、ここまでリモート会議が一般化する以前、『リモート映え』なんて言われても、全く意味が分からなかったと思います」

飯間さんの場合、言葉を辞書に載せるためには、少なくとも一般化して10年経っていることを目安にするそうです。新語が辞書に載っているように見えても、実はそれは作り手が10年間ずっと観察し続けていた言葉なのかもしれません。

この秋は、国語辞典の改訂版が複数刊行されます。「辞書なんて、どれもそんなに変わらないだろう」と思っている人も、この機会にじっくり読んでみてはどうでしょう。アプリ版をダウンロードしてみるのも良いでしょう。新しく加わった言葉、時代に合わせて工夫した説明に気づくかもしれません。

「『自分と相性が良さそうだ』といった直感でいいので、どれか一つ、辞書を選んで、『マイ辞書』を持って欲しいですね。しばらくして、『もう一つ別の辞書も手元に置いておこうかな』と思ってもらえたらうれしいです。気がついたら『辞書沼』にハマっていた、ということもあるかもしれません。でも、それは言葉のことを深く考えながら生活するようになるということです。決して悪くはないはずですよ」

→「沼の人」シリーズはこちらから
愛するものに投資を惜しまない。沼の人vol.1「万年筆」編

この人に聞いてみた
飯間 浩明さん
国語辞典編纂者
飯間 浩明さん
『三省堂国語辞典』編集委員。『知っておくと役立つ 街の変な日本語』(朝日新書)、『日本語をつかまえろ!』(毎日新聞出版)、『つまずきやすい日本語』(NHK出版)、『ことばハンター』(ポプラ社・児童書)、『四字熟語を知る辞典』(小学館)など著書多数。
ライタープロフィール
浅井 いずみ
浅井 いずみ
編集者・ライター。ペロンパワークス・プロダクション所属。漫画・アニメ・映画などポップからサブカルチャーまで幅広いエンタメ分野の記事執筆・コンテンツ制作に携わる。

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