土地の98パーセントが氷で覆われている南極

約98パーセントが氷で覆われている南極大陸。地球上で最も寒い場所といわれています。
日本の南極観測基地の年平均気温は、マイナス約10度~マイナス約54度。過酷な環境ですが、ここでしかできない観測・研究のために観測隊が派遣されてきました。日本の観測隊の活躍は、『南極物語』や『南極料理人』といった映画でも描かれています。
そんな南極地域観測隊の一員として、2017年から2019年まで南極の地で暮らした山田恭平さん。高校からの夢だったという南極に行き、何を感じ、その後の人生にどのような影響があったのでしょうか。
「自分の心臓の音が聞こえる」南極へ行きたかった

──「南極地域観測隊に入りたい」と思ったきっかけを教えてください。
山田:高校生の時、卒業生に元南極地域観測隊員の方がいて、学校で講演を聞く機会があったのですが、話を聞いて、直感的に「南極に行ってみたい」と思いました。
特にその方のお話で覚えているのは、南極に行くためには「お金持ちになるか」「観測隊に入るか」の2つの手段しかなく、「研究者として南極地域観測隊に入るのが最も現実的」という話でした。また、「南極の内陸に入っていくと、どんな生物もおらず風も吹かないため、あまりにも静かで自分の心臓の音が聞こえる」という話も記憶に残っています。
──その後、南極地域観測隊に入るための進路を選ばれるのですね。
山田:高校卒業後は、理系の大学に進学して地球物理を専攻しました。大学院まで進み、常々「南極に行きたい」と語っていたため、大学院の教授から「国立極地研究所(以下、極地研)」との共同研究を紹介していただく機会に恵まれました。極地研は、南極観測を専門に行っている機関で、そこで学ぶ機会を得たわけです。
大学院の修士課程が終わりに近づいてきた頃、いったんは諦めかけて就職活動をしたんです。一般企業から内定をいただき内定式にも出ましたね。
とはいえ、やっぱり、どうしても南極に行きたかった。そのため「博士課程に進みたい」と会社に伝えて内定を辞退、博士課程に進みました。博士課程修了後は、極地研に特任研究員として勤務し、1年目の終わり頃に観測隊候補者となって、ついに南極へ行くことができたのです。
目的は、まだ解明されていない土地のデータ
──普通に生活をしているとあまりイメージが湧かないのですが、南極観測では何をするのでしょうか。
山田:南極観測には、大きく分けて「地圏」「生物圏」「気水」「宙空圏(ちゅうくうけん)」の4分野があります。地圏は、地球規模の地震や地殻変動のことを研究(観測)します。生物圏は生物の研究、気水は大気や水についての研究です。そして、宙空圏は磁場や宇宙について研究します。
──山田さんはどの分野の研究をされたのでしょうか。
山田: 私は、気水の分野です。そのなかでも「大気」について研究しました。地球全体の温度が上がっているという温暖化の話は皆さん聞きますよね。温暖化は場所によって進み具合が違うのです。
南極を例にとると、大陸の西側エリアではものすごく温暖化が進んでいる。その一方で、私が行った昭和基地がある東側エリアや南極点がある中心エリアは温暖化があまり進んでおらず、逆に、寒冷化しているという見解もあるぐらいです。
──南極大陸だけみても、地域によって差が出るのですね。
山田:そうですね。南極における温暖化の影響については研究者の間でも様々な意見が出ており、正確に知るためにはもっと多くのデータを積みあげていく必要があります。
これまでは、比較的暖かく過ごしやすい大陸の西側エリアには色々な国が基地を作り、多くの観測データを収集してきました。
一方で、中心エリアや昭和基地がある東側のエリアは、あまり人が踏み込まなかった場所で、観測データが少ないのです。そのように気象が正確に把握できていなかったエリアの気温や降雪量の観測データなどを重ねて、南極大陸の気候変動を検証できるようにしていくというわけです。
──南極の気候を研究することで、どのようなことに役立つのでしょうか。
山田:南極の気候変動は南極大陸への影響で完結するものではなく、地球全体に影響を与えうる要因になります。例えば、氷床融解にともなう海水面上昇は分かりやすい影響と言えるでしょう。南極の観測はそのような地球規模のリスクの状態を把握することにつながっています。
過去には南極観測の大きな成果として、オゾンホールの発見がありました。オゾンホールが発生しているのは、大気中のオゾン層が破壊されている合図です。オゾン層が破壊され、その作用が弱まると、太陽から地表に到達する紫外線が強まり、生物に悪影響を及ぼすと言われています。
オゾンホールの場合、フロンやハロンという物質が発生原因として特定されていて、国際的に使用が規制されました。検証途中ではありますが、近年ではオゾンホールの面積が縮小してきたというデータがあり、ゆっくりと改善傾向にあるとの見解も見受けられます。
──観測や研究を通して地球規模の課題へ取り組んでいるのですね。観測はどのようにして行うのでしょうか。
山田:私が行った観測方法の一つに、自動気象観測装置(AWS)の設置があげられます。小学校などでよく見かけた百葉箱のような機器を、南極内陸部の雪に穴を掘って設置します。そして、設置した装置が記録したデータを基に大気の研究を行いました。
ほかにも「ラジオゾンデ」といって、温度計や湿度計をつけた気球を飛ばすこともありました。この観測方法では、南極上空の気温や湿度、風速といったデータを取得することができます。そうやって観測したデータを積みあげていくことで、今まで分かっていなかったことを明らかにしていったのです。

観測基地では、ビールの無料提供やビリヤードやダーツもできた

──南極は地球上でいちばん寒い場所と言われていますよね。かなり厳しい環境での生活に思えるのですが…
山田:意外とそうでもなかったですよ。私の基本的な勤務形態は、夏は8時から17時、冬は9時から17時まで仕事、土日は休みでした。社会一般的な労働時間だと言えますよね。
また、観測隊には調理隊員という料理専門の隊員がいて、おいしい食事を作ってくれる。それに、ビールも無料で支給されます。お金は使う機会がないから、貯まっていく一方でした。
──福利厚生もしっかりしているのですね。勤務時間以外は何をされていたのでしょうか。
山田:基地に遊技場があって、ビリヤードやダーツ、テレビゲームなどがありました。バーや映画を観られる施設もあり、娯楽は充実していましたね。無料で利用できるので有り難かったです。

もちろん、気象状況などに応じて予定外の作業も発生します。例えば、ブリザード(暴風雪)が来たら、状況を見ながら除雪作業をする必要がありました。
私たちのような研究者は、非常階段は除雪して常に通れるようにしておけば良い程度にしか考えませんが、エンジン発電機の担当隊員だとそうはいきません。電気などは、ライフラインに関わる事態につながります。何かトラブルが起こったら直ぐに対応せねばならず、大変そうでしたね。
ほかにも、観測装置を設置しているときにパーツが折れてしまったり、移動手段である雪上車は空冷エンジンなのですが、その調整が上手くいかず、フィルターに段ボールを貼ってエンジンが冷えすぎないようにするという原始的な手法で対処したり。大ごとにはならずに良かったものの、もし雪上車が動かなくなる故障をしたら基地に戻れなくて大変なことになっていましたね(笑)。
──山田さんのお話を聞いていると、大変そうですが、お話を聞く前に予想していたよりは普通の生活という印象を受けます。
山田:大変といえば大変なのですが、日本にいるときも、論文を執筆したり学会に参加したりと、やることはたくさんありますよね。一方、南極では、業務が決められ、会う人や行く場所も限定されます。生活がシンプルなんです。だから、南極にいく前に想像していたほど大変さは感じませんでした。
──とはいえ、辛かった思い出などもあるのではないでしょうか。
山田:1ヵ月程かけて内陸に行ったときでしょうか。基本的には雪上車の車内で過ごし、服もあまり変えません。基地とはまったく違う環境でしたね。
昭和基地は冬でもマイナス30度ぐらいですが、南極は内陸へ行けば行くほど、どんどん温度が下がっていくんです。体感した中だと一番低いときはマイナス60度ぐらいでした。観測のために気球に凧糸で観測装置を取り付けるのですが、防寒用の手袋をしたままだと糸が結べず、マイナス60度の環境下で、手袋を外して作業をしました。
また、内陸に行くにつれて、高度がどんどん上がっていきます。高度が上がると気圧が下がり、空気は薄くなり、高い山に登ったときのように呼吸が苦しくなる。そのような場所では、無駄に身体を動かさないようにしていました。
人生の選択肢は「南極に行くための逆算」で判断してきた

──山田さんは「南極に行きたい」という夢を抱き、それを叶えたわけですよね。次の目標をお聞かせください。
山田:それが、今は何もないんです。
私は、南極へ行くまでの人生の選択を「どちらを選べば南極に近づくか」という観点で選んできました。例えば、進学か就職かという二択があるとき「南極に行くためには進学した方が有利だ」とか。目標から逆算して決断してきたので、迷ったり悩んだりすることがあまりなかったのです。
でも、目標を達成した今は違いますよね。研究者として、今も環境保全の研究は続けていますが、本当にふわふわした状態です。何か目標を見つけないとまずいなって、危機感はあります。
目標がなくなって初めて、「目標がある方が人生はスムーズにいく」って気づきましたね。
──観測隊にもう一度参加する道はないのでしょうか。もしくは、観測隊に関わることが次の目標にはならないのでしょうか。
山田:一回行ったので、今は南極へ行くことは考えていません。ただ、極地研は離れましたが、今も立場は研究者です。南極でしかできない研究があれば行きたいと思っています。
とはいえ、仮に次に行くのであれば、南極へ行って何をするかが重要になるでしょう。これまでは、南極へ行くための手段として研究がありました。次は、研究のために南極へ行くことになります。当然、これまでとは違った新しい目標が必要ですよね。
夢が行動の原動力となる
南極へ行くために研究者への道を進んだ、その原動力となったのは「夢」があったからこそ。今は「目標がない」と冗談めかす山田さんですが、高校時代に抱いた「南極に行きたい」という思いを大切にしたからこそ、今があるのではないでしょうか。
山田さんのように、自分が「やりたい」と感じたことを大切にし、行動してみることが、人生を動かしていくのかもしれませんね。
この人に聞いてみた

高校生の頃から南極地域観測隊入隊をこころざし、2017年に第59次南極地域観測隊の隊員として南極観測へ参加。自身の南極地域観測隊での体験を記した著書『南極で心臓の音は聞こえるか』を2020年に光文社から刊行している。現在は長野県環境保全研究所の研究員として勤務。
ライタープロフィール
