技術者の価値と誇りを守る。浜野製作所・浜野慶一さんが模索する町工場の未来

技術者の価値と誇りを守る。浜野製作所・浜野慶一さんが模索する町工場の未来

技術者の価値と誇りを守る。浜野製作所・浜野慶一さんが模索する町工場の未来

高度経済成長期には1万もの町工場があった東京都墨田区。しかし現在その数は5分の1以下に。長年受け継がれてきた技術は失われつつあります。そんな実情を案じ、町工場の未来を守るために奮闘する浜野製作所の浜野慶一さんにお話をうかがいました。

ものづくりの町として知られる東京都・墨田区。ここに、多くのベンチャー企業が信頼を寄せる町工場があります。板金やプレスなどの金属加工業を営む、浜野製作所です。

経営難や後継者不在により町工場の多くが廃業していくなか、順調に事業規模を拡大。特にここ数年は優れたアイデアやテクノロジーを持つベンチャー企業と協業し、ロボット、パーソナルモビリティなど、様々なプロダクトを製造しています。

「従来の下請け構造から脱却し、町工場の技術を守り、社会課題の解決につなげたい」

そう語るのは、浜野製作所代表の浜野慶一さん。ものづくりを下支えする町工場の火が消えれば、日本の製造業は立ち行かなくなってしまう。そんな危機感から、主体的に仕事を創出する、新しい町工場のあり方を模索し続けています。

ものづくりの未来を守るために奮闘する、浜野さんの取り組みについてうかがいました。

【この記事で想像できる未来】

理想:
自ら市場を生み、新しい仕事を創出。大手メーカー依存の下請け体質から脱却する。

実現:
ベンチャー企業と協業し、町工場から社会課題の解決につながるプロダクトを生み出す。

もしかしたらの未来:
自社だけでなく業界全体を底上げし、町工場に仕事が流れる仕組みを作る。

プロフィール

浜野慶一(はまの・けいいち)さん
1962年、東京都墨田区生まれ。東海大学政治経済学部経営学科卒業後、東京都板橋区の精密板金加工メーカーに就職。1993年、株式会社浜野製作所代表取締役に就任。本業の金属加工だけでなく、産学連携の電気自動車プロジェクト「HOKUSAI」や、深海探査艇プロジェクトである「江戸っ子1号」など、様々な事業に取り組む。2014年には「ものづくり総合支援施設Garage Sumida」を設立。町工場の技術力を生かし、ベンチャー企業の支援などを行っている。

後継者不在で消えゆく町工場

――下町の町工場の高い技術力は知られていますが、一方で倒産、廃業件数も年々増えています。やはり、経営が厳しいところが多いのでしょうか?

浜野:高度経済成長期には墨田区内に約9,700〜9,800の町工場がありましたが、今は1,500〜1,600。5分の1以下に減っています。墨田区だけでなく、東京では大田区、さらに東大阪など全国的に減少傾向にありますよね。ただ、経営難ばかりが原因とは限りません。

――ほかにどのような原因が考えられますか?

浜野:墨田区や大田区などの大都市圏の場合はここ十数年でマンションが増え、以前はなかった騒音の苦情が近隣住民から寄せられるようになりました。もともと都内の町工場は手狭で賃料が高いこともあり、他県などへ移転するケースも多いようです。ただ、最大の原因は事業承継問題、つまり後継者がいないことですね。

後継者不在で消えゆく町工場
[撮影]香川賢志

――浜野さんご自身は、ご両親から工場の経営を引き継がれたそうですね。

浜野:はい。しかし、じつは大学4年生になるまで家業を継ぐつもりは全くありませんでした。浜野製作所はもともと、両親だけで始めた小さな工場です。私が子どもの頃は自宅と工場が一緒になっていたので、朝から晩まで両親が働く姿を近くで見ていたんです。その時は正直、この仕事に対してあまり良い印象は抱いていませんでしたね。

――なぜでしょうか?

浜野:うちは父が社長で母が役員のような関係だったこともあり、仕事で問題が起きると二人でよく話し込んでいました。それが、子どもの自分には喧嘩をしているように見えたんです。そして、「この人たちは嫌々この仕事をしているんだ」と、勝手に思い込んでしまっていたんですね。両親がやっている仕事を尊敬することができなかった。だから、継ごうという気にもならず、大学の頃はサラリーマンになろうと思い就職活動をしていました。

――しかし、その後やはり工場を継ぐことになったと。考えが変わった理由は?

浜野:ある日、父から飲みに誘われ、こういわれました。「うちは小さな町工場かもしれないけど、お父さんもお母さんもこの仕事に誇りを持っている。もの作りは奥が深くて楽しい」と。後ろから頭を殴られたような衝撃を受けましたね。同時に、自分が恥ずかしくなりました。両親が生活のため、子どものために仕方なく働いていると思い込んでいたこともそうですし、会社の規模や立派な社屋など、見てくれだけで仕事の良し悪しを判断していたのではないかと。

――そして、ものづくりの道へ進むことを決めた。

浜野:はい。両親が守ってきた、誇りある仕事を継ぎたいと思いました。今思えば、父は私に工場を継いでほしくてそんな話をしたのかもしれませんね。それから、ゆくゆく浜野製作所を継ぐことを前提に、ほかの工場に丁稚奉公のような形で就職したのがスタートです。

後継者不在で消えゆく町工場
[撮影]香川賢志

――浜野製作所で修業を積むのではなく、いったん別の工場に入ったんですね。

浜野:それも、父からのアドバイスですね。今後の社会、もの作りの動向を見据えると、当時の浜野製作所がやっていた量産の仕事ではなく、小ロットで多品種を展開できるようになったほうが良い。そうした技術を持つ工場で学ぶ意図もあり、まずは丁稚奉公から始めることにしました。

――その後、実際に家業を継いだのはいつですか?

浜野:僕が30歳の時に父が亡くなり、浜野製作所を継ぐことになりました。当時の経営状況は、決して悪くなかったですね。両親は機械なども借金ではなくお金をちょっとずつ貯めて買い換えるタイプでしたし、景気が良い時期でも工場を拡張しなかった。町工場というと常に資金繰りに苦労しているようなイメージを持たれる方もいるのですが、うちの場合は両親ともに堅実だったのもあり、承継当時は資金繰りで苦労しませんでした。

――経営状況が良かったこともあり、お父様は工場を残したい、浜野さんに継いで欲しいと思われたのかもしれませんね。

浜野:そうですね。実際、大きな借金をして工場を建てたものの、それが枷となって苦労している経営者もいます。そうなると、自分の子どもには大変な思いをさせたくないからなのか、娘や息子に「工場なんて儲からない。こんな仕事やるもんじゃない」といって聞かせるようになる。小さい頃からそんな話ばかり聞かされていたら、そりゃ継ぎたくなくなりますよね。事業承継がうまくいかない最大の理由はそこにあると思います。逆に、うまく二代目、三代目へと受け継がれているところは、僕の父親のように「仕事が楽しい」「誇りを持っている」と聞かされていることが多いようですしね。

後継者不在で消えゆく町工場
[撮影]香川賢志

町工場とベンチャーをつなぐ「Garage Sumida」

――浜野製作所は浜野さんの代になってから大きく規模を拡大し、現在は総勢56名。事業領域も広がっています。発展のきっかけを教えてください。

浜野:発展のきっかけというより、僕の意識が変わった契機になったのは、経営学者の関満博先生と出会ったことですね。関先生は長年、日本の中小企業を研究してこられた方。2004年には「フロンティアすみだ塾」という、墨田区で若手経営者・後継者を育成するビジネススクールを立ち上げられました。僕も既に経営を継いでいたので興味を持ち、塾生以外にも公開された第一回目の授業に参加してみたんです。まあ正直、ほんの軽い気持ちでしたけど、結果的にそれが僕の人生において大きなターニングポイントになりました。

最初の勉強会で関先生と会話する機会があり、僕のことをおもしろがってくれたのか、その1週間後に工場を見学しにきてくれたんです。そのまま二人で飲みに行ったら、楽しくてね。中小企業研究の分野では国内で指折りの先生なのに、すごくフランクな方でした。そして、話の流れで、「年に1回、国内外の中小企業の実態を見て回る合宿をやるんだけど、浜野も行くか?」とお誘いいただいたんです。即答で「もちろん参加します」と。

――すごい展開ですね! 参加してみていかがでしたか?

浜野:1週間で6〜7社の工場を回り、夕方からはその会社の社長さんや関先生のゼミの学生、若手研究者なども交えて飲む。30代半ばの新米経営者にとっては、得難いほどの経験と刺激の連続でしたね。事業についてはもちろん、採用や人事評価、給与体系に至るまで様々なことを先輩経営者から学びました。当時の浜野製作所は家族経営でしたので、恥ずかしながら組織的なルールも曖昧なところが多く、就業規則もキチンと運営できるように整備はされていませんでした。そのことを相談すると、「うちの規約をアレンジして使って良いよ」とおっしゃってくれる社長さんもいたりしてね。

――それだけ浜野さんが愛されていたんでしょうね。そうやって経営力を養いつつ、事業規模を拡大していったと。

浜野:そうですね。30代半ばから40代半ばまでの10年間、そうした知見を工場にフィードバックして、少しずつ体制や営業のやり方を変えていきました。同時に、新しい事業のアイデアも生まれていきましたね。その一つがGarage Sumida(ガレージスミダ)です。

町工場とベンチャーをつなぐ「Garage Sumida」
[撮影]香川賢志

――Garage Sumidaは、ものづくりで起業したい人や、試作・開発のために 町工場の技術を開放する「ものづくりの総合支援施設」だそうですね。イメージとしては、ベンチャー企業と町工場の職人をつなげるハブのような役割を持った場所でしょうか?

浜野:ベンチャー企業に限らず、最先端の技術やアイデアを持つ新規事業を伴走しながら支援したいと考えています。ただ、当初は町工場の技術を開放し、ものづくりの幅を広げたいと考えているくらいで、最先端のテクノロジーで事業を起こすベンチャー企業や研究機関、企業の新規事業部門との協業を想定していたわけではありませんでした。

一番最初に出会ったのは、分身ロボット「OriHime」の開発で知られるベンチャー企業、オリィ研究所の吉藤くんです。当時の彼はまだ大学生でしたが非常に志が高く、障害を持つ人や病気の人が抱える孤独を解消したいという強い思いを持って相談にきてくれました。

――吉藤さんといえば、2016年の「フォーブスが選ぶ30歳未満の30人」に選出されるなど、国外からも注目されるロボットコミュニケーターです。

浜野:はい。ただ、当時の彼はプログラムが得意で試作も自分でしていましたが、ロボットの量産、つまりハードウェアを量産する手段を持っていませんでした。それで私のところへ相談に来たんですが、彼のプレゼンを聞いて、非常に感銘を受けたんです。こういう若い子が、人のため社会のためにと懸命に頑張っている。日本も捨てたもんじゃないなって。僕自身、経営を継いだばかりの大変な時期に多くの人に背中を押してもらいましたので、彼の事業を手伝いたいと思いました。

――それでGarage Sumidaを提供し、OriHimeの開発を支援することになった。

浜野:はい。当時、オリィ研究所の創業メンバー4人のうち、3人は僕のマンションに住みながら開発していましたよ。その後、吉藤くんの取り組みが話題になり、メディアなどで浜野製作所のことを話してくれて、Garage Sumidaの名も広まっていった。以来、ベンチャー企業からの相談が増えていきましたね。

町工場とベンチャーをつなぐ「Garage Sumida」
▲吉藤さん(写真左)と浜野さん(写真右) [撮影]香川賢志

――実際に、協業につながった事例を教えていただけますか?

浜野:次世代型電動車椅子のWHILL、新型風力発電機のチャレナジー、自動野菜収穫ロボットのinaho、海外旅行で余った外貨のコインを電子マネーにチャージできるポケットチェンジなど、様々なベンチャー企業のハードウェアを浜野製作所で製造しています。ちなみに、2017年に雑誌『Forbes』が「世界を変えるスタートアップ100選」という特集を組んだのですが、選定された日本企業のうち11社がGarage Sumidaと関わりのあるプロダクトだったんです。

――それはすごい。ベンチャー企業との協業は、町工場の新たな事業モデルとしても大きな可能性を感じます。

浜野:ベンチャー企業だけでなく、大学、研究機関、企業の新規事業部門といった、ものづくりの情報の上流からコミットできているお取引が、現在では浜野製作所の売上の約3割を占めています。当初は相談があるとボランティアで手伝っていましたが、それがあたり前になってしまうと彼らにとっても良くない。もちろん、うちとしても従業員が機械を動かして売上がゼロというわけにはいきません。そこで今は、いくら彼らの志に心打たれたとしても、お互いのビジネスが成り立つように、必要な費用についてはキチンとお伝えしています。

ただ、そうはいってもベンチャーはお金がないので、VC(ベンチャーキャピタル)さんやベンチャーコンテストを開催している企業と連携をとるなど、弊社のつながりを活用して間接的にベンチャー企業の開発資金を捻出する手助けをするケースもありますね。

町工場とベンチャーをつなぐ「Garage Sumida」
[撮影]香川賢志

――いずれにせよ、しっかり事業として成り立つか否かが協業のポイントであると。

浜野:はい。なかには「こんなの作りたいんです!」と勢いで相談に来られるケースもあります。そんな時は「この部分をしっかり揉んでから、もう一度来てください」という話をするようにしています。お金がすべてではありませんが、双方がしっかりと儲けられる仕組みを作りあげないといけません。

――ただ、そんな時でも門前払いはせず、話は聞くスタンスなわけですね。

浜野:昨今のベンチャー企業全般にいえることですが、やはり何かしらの社会課題を解決したいという若者が多く、基本的には応援したいと考えています。情熱を持った若者と仕事をすると、僕らにとっても学びになるしワクワクしますから。

町工場の技術を守る一助になれたら

――冒頭で、東京を離れ、運営コストの安い他県に移転する工場も多いというお話がありました。しかし、浜野製作所は東京に残ることで、地元の地の利を生かしたものづくりを展開してきた。減少の一途をたどる都市部の町工場にとっては、一つの手本になるのでは?

浜野:東京は人件費・土地代が高く、大きな工場を作る土地もありません。とりわけ、私たちがいる墨田区などは近隣の住宅と密接した環境でもあり、総合的に考えると日本で一番、ものづくりに向いていない地域なのかもしれません。だとすると、他の地域や海外の生産拠点と同じことをしても、とても勝ち目はない。

しかし、最大のデメリットに思える東京の地域性も、視点や枠組みを変えることで、最大のメリットになり得るかもしれない。Garage Sumidaを立ち上げたのも、そんな思いからですね。

――今後、Garage Sumidaからどんな取り組みが生まれるのか、楽しみです。最後に、これからの町工場、そして浜野製作所の展望を教えてください。

浜野:現段階であまり大きなことはいえませんが、理想としては自社だけでなく地域の町工場を存続させ、技術を守っていく一助になれたらと考えています。製造業は分業化が進んでいて、様々な町工場が各々の技術を結集することで成り立っている。例えば僕らは金属加工の会社ですが、部品ができたらほかの工場へメッキ加工をしてもらいます。また、場合によっては特殊なネジを必要とするなど、他社と連携しなければ製品が完成しないわけです。町工場、中小企業レベルで全てを一社で完結させるのは、技術的にも人員的にも限界があります。

――だからこそ、みんなで生き残っていく必要があると。

浜野:はい。資金を援助したり、M&Aで事業を引き継ぐといったことも必要ですが、Garage Sumidaのような場所を通じて業界全体を底上げし、町工場に仕事が流れる仕組みを作れたらと考えています。

――町工場の技術力は、日本のものづくりを支える根幹でもあります。

浜野:その通りです。ただ、そのすごさに経営者や技術者自身が気づいていないケースもあります。20年も30年も同じものを作り続けていると、どうしてもそうなってしまうんです。結果、せっかくの優れた技術を得意先から買い叩かれてしまう。そのうち、値下げを受け入れ続ける負のサイクルから抜け出せなくなってしまっている下請け企業も少なくありません。

今後はそんな構造もなんとか変えていきたいですね。例えば、同じ技術でも提供先を変えれば本当に価値のあるものとして、相応の対価を得られる可能性だってあるはずです。

町工場の技術を守る一助になれたら
[撮影]香川賢志

――それこそ、ベンチャー企業など、未知のプレイヤーが新しいお客さんになるかもしれない。

浜野:そう思います。今は社会が多様化していて、小さな市場が次々と生み出されています。そして、その多くはハードウェアを必要としている。これって町工場にとってはすごい追い風ですよね。それに、僕らが持つ「ものづくり」という大きな武器を通して社会に寄り添うことで、町工場が主体的に新しい市場を作っていくことだって不可能ではないと思います。

町工場というと下請け仕事で、きつくて汚い職場と思われている方も多いでしょう。これからは、そんなイメージも変えていきたい。自ら仕事や市場を創出して工場で働く従業員の心と生活を豊かにし、技術者一人ひとりが仕事に誇りを持てるようにする。それが、僕の人生における最大の目標ですね。

ライタープロフィール
榎並 紀行
榎並 紀行
編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。
WEBサイト:50歳までにしたい100のコト(外部サイト)


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