農村での原体験。幼少期を語らずして渋沢栄一は語れない
〜“日本資本主義の父”渋沢栄一は農家に生まれ、若かりし頃は尊皇攘夷派として「高崎城乗っ取り、横浜外国人居留地焼き討ち計画」のような無謀ともいえる計画を立てたこともありました。その後、1867年にはパリ万国博覧会使節団の一員として欧州を視察し、明治政府の役人を経て数々の会社設立に尽力。日本の近代化を先導し、今なおリーディングカンパニーとして歴史を刻み続ける大企業の礎を築きました〜
「こうしたストーリーは、既に様々なメディアで紹介されています。しかし、渋沢栄一の人格形成に大きく影響したと考えられる幼少期の原体験については、あまり詳細が語られていません。渋沢栄一は一夜にして“日本資本主義の父”になったわけではありません。幼少期から青年期にかけてこそ、渋沢栄一を渋沢栄一たらしめたエッセンスが詰まっているのです。」と語るのは、公益財団法人渋沢栄一記念財団が運営する渋沢史料館の井上潤館長。渋沢研究の最前線で活躍し、講演依頼の絶えない井上館長に、渋沢栄一の生い立ちから順に話を聞きました。
渋沢栄一は、1840年に武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)の農家に生まれました。近くには利根川が流れ、五街道の一つである中山道が通っていました。船での物資輸送が中心だった当時、利根川はいわば大動脈。ヒト・モノ・カネ、そして情報が活発に行き交う地域経済の要衝であり、貨幣経済が早くから浸透していた地域でもありました。
また、渋沢家を含む多くの農家は、農作だけでの“安定経営”が難しく、商いも営む「半農半商」。父親も商売を軌道に乗せ、村で1、2を争う豊かな家になったといいます。この生活環境によって、渋沢栄一は“利益”を生む手段を目の当たりにすると同時に、“商い”によって経済的な発展を遂げる可能性に気づくのです。さらに、父親は村のまとめ役。村という組織の運営方法を身近な父親の背中から自然と学びとることで、組織全体、社会全体を見渡す目が養われていったと考えられます。ポイントは、文献からノウハウを学ぶのではなく、実体験を通して学んだということ。家の手伝いをするなかで、将来に活きる素養が自然と体に染み込んでいったのです。
さらに、幅広く物事に目を向けさせようとした従兄弟の存在もあり、渋沢栄一は知的好奇心旺盛な若者として成長します。多くの情報に触れることで有用な情報を見抜く洞察力が養われ、多様な事象に対応できる柔軟性や、広範な情報を基にした総合的な判断力が育まれたのです。
人を育てるには環境が大きくものをいうといわれます。渋沢栄一の生い立ちには、現代の子育て世代が意識すべき環境づくりや教育のありかたのヒントが詰まっているといえそうです。


あらゆるステークホルダーを“納得”に導くリーダーシップ
渋沢栄一については、数々の企業を育成させ、教育機関や医療機関の設立にも関わった功績がよく語られます。もちろん、設立の功績も大きなものですが、特筆すべきは設立後の運営において「敵をつくらなかった」こと。現代の企業においても、経営方針の違いから内部分裂が起きるということはありますが、渋沢栄一が当時一貫して行っていたことは、徹底的に議論させることでした。たとえ合理的だとしても多数決で結論に至らせることはなく、逆に非合理的に見えたとしても、とことん意見を出させるのです。
とはいえ、議論がし尽くされても結論に至らないことがほとんど。すると“お伺い”を立てられ、結果的には渋沢栄一の“意見”に対して「なるほど、その通り」と両者が納得して結論に至るわけですが、決して結論を押し付けることはなかったといいます。意見が食い違う状態での多数決は手っ取り早く合理的だとしても、相互理解と納得感を大前提として結論に導くプロセスを重視したのです。民主主義と「数の論理」を同一視すべきでないことは、現代の私たちも肝に銘ずるべきことではないでしょうか。
視点を変えれば、渋沢栄一は、議論の全体像を俯瞰し理解したうえで、望ましい方向に人々を導くリーダーシップを発揮していたということです。その「大岡裁き」ともいうべき判断は、多様な知識によって正当性が裏付けられるもの。幼少期以来の豊富な経験と知識が個別の事案に集約され、明確なエビデンスとなって実を結んでいったのです。
さらに、渋沢栄一の判断力を高めた要因が、幕臣時代や大蔵省の役人時代以降に築いた人脈です。特に明治の元勲と対等に口がきけるネットワークがあったからこそ、総合的な判断に寄与する“良質”な情報を集めることができました。将来の指針を示す際には、根拠とする情報の正確性が不可欠。人との結びつきを大切にすることで、必要かつ有用な情報を得るためのネットワークが構築されていったのです。


情報を鵜呑みにしないクリティカルシンキング
現代において、いかに良質な情報を手に入れたとしても、それが必ずしも的確な判断につながるとは限りません。では、何が必要なのか。渋沢栄一は、組織運営で大きな決断を迫られたときや、自分が人生の岐路に立たされたときには、極めて慎重に情報を精査しました。
まずは、ネットワークをフル活用して、可能な限り多くの情報を集めます。現代の情報社会に渋沢栄一がタイムスリップしたら、頻繁にインターネット検索をするかもしれません。SNSに飛びつくかもしれません。それだけ情報に敏感だったからです。ただ、おそらくそう簡単には「いいね」を押さないはず。情報を鵜呑みにせず、自分の経験や知識とも照らし合わせながら、情報の質を見極めるからです。その結果、大きな選択を迫られた際のミスはほとんどなかったといいます。良質な情報を集めて精査するからこそ、極めて重要な局面でも正しい判断ができたのです。
昨今は情報が氾濫し、ときに風評被害のような悪影響も生じます。そこで求められるのが、情報を自分の頭で咀嚼して、その真偽や本質を見抜く力、いわゆる情報リテラシーです。その点、渋沢栄一は今から100年も前に、既に情報リテラシーの必要性を認識し、実践していたということです。この情報リテラシーを始め、幼少期における実体験の大切さ、組織における意思決定のあり方、人脈づくりなど、渋沢栄一から学ぶべきポイントが実に多いことが分かるはずです。



「士農工商」からの脱却、「官尊民卑」の打破。そして「道徳経済合一説」
渋沢栄一は、「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)になったことを皮切りに、会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。そのなかには、みずほ銀行、王子製紙、帝国ホテル、サッポロビール、東京海上火災保険など、現在も残る有名企業の源流にあたる会社も数多くありました。


渋沢栄一が幾多の企業を設立した背景には、「官尊民卑」を打破しようとする強い思いがありました。世の中の繁栄のために、官民一体で手を携える重要性を説いたのです。民間人は役所や役人に頼りがちになることがあり、現代でも「役所が何もやってくれない」という言葉を耳にすることがありますが、そう考えるのではなく、民間が力をつけ、民間主導で世の中を動かさなければ本当の発展にはつながらないと考えたのです。
江戸時代の「士農工商」では「商」が最下層。明治時代に入っても「商売による利益追求=反道徳」という風潮が残るなかで、渋沢栄一はこれに強く異議を唱えました。国を強く豊かにするのは政治力や軍事力ではなく、経済。産業振興があってこそ国は強くなるという発想です。
ただし、利益を求める際に、倫理に反すること、道義に反することは強く戒めました。これが「道徳経済合一説」の本質です。利益追求と道徳観のバランスが間違って理解され、「清廉潔白、道徳心を持って生きようとしたら貧乏の方がいい」とさえ考えられていた時代ではありましたが、「利益追求=悪」との価値観を真正面から否定したのです。
こうして当時の商人は意識改革を果たします。「自分たちは卑しいことをしているわけではない」と、正当性を認められたわけです。その結果、労働意欲が高まり、商況も向上。経済活動の発展、ひいては日本社会全体の繁栄につながっていったのです。



経営は子育てと同じで苦難もある。必要なのは“絶大なる忍耐力”
渋沢栄一が企業の設立に関わる際には、事業の公益性を念頭に、緻密な将来予測を条件に掲げました。徹底したことは、曖昧さの排除。資本が確実に得られる見通しと予算計画があり、長期的な展望を持った経営計画があることを重視しました。そして、競争原理の中でも同業者と手を携えること。足の引っ張り合いで過当競争に陥れば、その事業分野自体が衰退するからです。これは「道徳経済合一説」に集約される渋沢栄一の商業道徳観にも通ずる部分があります。渋沢栄一が最も嫌ったのは、自分の利益のみを第一に考えてしまうこと。そこには絶対に落とし穴があると警鐘を鳴らしました。
そのうえで、「事業は子育てと同じ」と説きました。子どもが病気もせず健康なまま育つことはレアケース。苦難に直面し、それを乗り越えて成長するものです。事業を継続するためにも、「絶大なる忍耐力が必要」と語ったといいます。同時に、いわば事業を動かす際の“家族”である「人材」のために、労働環境の整備にも注力し、未来を見すえて担い手の育成も重視。現代でいうキャリアパスの明確化や、安心感のなかで仕事に取り組める環境づくりとして給与体系の整備も進めました。さらには、長年勤め上げた人材を労う退職金制度も整備。じっくりと腰を据えて働ける安心感を与えることによって、望ましい労働の成果が表れてくると考えたのです。
渋沢栄一は起業家としての功績が多く語られますが、実際には健全な経営のあり方として、労働環境の整備や労使関係の健全化を非常に意識していたのです。労働組合などの第三者機関によって労働者の立場を守るスキームづくりを推進し、労使対立ではなく労使協調を進めました。
江戸時代の村にも、血縁関係に限らない社会的な人のつながりがあり、相互扶助の精神が根付いていました。また、職人の世界における師弟関係・主従関係においても、確かな信頼関係がありました。近代化が進み、会社という未知の組織が生まれたことで、日本古来の家族的な温かさや結びつきが希薄になった時期もありましたが、だからこそ渋沢栄一は、家族主義的なつながりを体現する会社経営の方法として、労使協調に注力したのです。

神様、渋沢栄一
渋沢栄一は毎朝6時に起きて朝風呂に入り、身なりを整え朝食をとると、10時に外出。最初に向かう先は自分の事務所。そこに企業の役員が相談に訪れ、次々に指示を出す毎日でした。
ある企業の経営指導にあたった際には、「道義に反し、もし役所との癒着に向かい、御用商人となるようなら、俺はもう一切口をきかない」と厳しい口調になったといいます。ただ、厳しさは思い入れの強さや愛情の裏返し。日本社会全体の発展、公益をめざす中で、数多く関わる企業一つ一つに対しても、強い思い入れをもって関わっていたといいます。
また、近代国家として日本を成長させ、グローバル社会の中での存在感を高めようと、民間外交を活発化させる指示やアドバイスも多かったといいます。国内での経営策から海外展開まで、一つ一つの相談に真剣に向き合って道を拓き、安心感を与える存在だった渋沢栄一。名だたる企業の経営層が語った“渋沢栄一観”について古い資料を紐解くと、まさに「神様」のごとき存在として認識されていたことが分かります。
使命感に満ちた渋沢栄一らしさがうかがい知れるエピソードは、亡くなる直前にも残されています。その最晩年に、救護法(現在の生活保護法)が議会で成立したものの、予算上の都合で施行が先送りになることがありました。その時、早期施行を求める同盟が結成され、渋沢栄一に会長就任を依頼したのですが、本人は病床に伏し、主治医も面談を許可しません。そのとき渋沢栄一はこう語ったのです。
「こういう社会的な事業に関して、私には義務がある。長く生きながらえさせてもらったのは、こういうときに動かなきゃいけないという場面を与えてもらったということなのだ。だからこそ私は今動く」
「皆が豊かになれば、その豊かさはすべて自分に返ってくる。いくら自分が努力して豊かになっても、世の中全体が疲弊していたら元も子もない」
働き方改革、コンプライアンス、持続可能性、人材育成、社会還元、公益性など、現代の企業が直面する数々の課題を解決するヒントが、渋沢栄一の生き様や哲学に隠されているといっても過言ではないでしょう。
公益財団法人渋沢栄一記念財団では、ウェブサイト上で渋沢栄一の足跡を事細かに知ることができるほか、各種セミナーや講演も実施していますので、混沌とした現代社会を生き抜く処方箋として、チェックしてみてはいかがでしょうか。


(取材協力)
渋沢史料館 (運営:公益財団法人渋沢栄一記念財団)
※2020年3月リニューアルオープン予定
〒114-0024 東京都北区西ヶ原2-16-1 TEL 03-3910-0005
ライタープロフィール

2001年中央大学総合政策学部卒業。ビジネス誌の編集記者や、PC関連メーカーのコピーライター、広告制作会社での編集・ライターなどを経て、2012年よりフリーランス。企業から教育機関、研究機関まで、幅広く取材活動を展開中。
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