料理を科学する分子ガストロノミーの先にある「未来の食」

料理を科学する分子ガストロノミーの先にある「未来の食」

料理を科学する分子ガストロノミーの先にある「未来の食」

「料理」と「科学」は密接な関係があります。料理人と科学者が協力し、料理のなかで起こるプロセスを分析することで、従来伝わってきた調理法などを見直す「分子ガストロノミー」。分子ガストロノミーから「未来の食」を想像してみます。

最近「料理は科学」という言葉をよく聞くようになりました。しかし、科学とは森羅万象のメカニズムを解き明かすための手段。その意味では「料理は科学」という言い方は正確ではなく、正しくは「料理も科学的に捉えることができる」と言うべきでしょう。

料理を科学で捉える動き

料理を科学で捉えよう、という試みは今に始まったことではありません。18世紀の料理人マランは著書『コーモスの贈り物 あるいは食卓の歓び』(1739年)のなかで「現代の料理は化学の一種である」とし、画家が色を均一に混ぜ合わせるようにすべての味を調和させるよう説いています。

1679年には、フランスの物理学者ドニ・パパンは骨をやわらかくするための研究の最中に、圧力鍋を発明しました。

フランシス・ベーコンは冷凍保存実験をきっかけに命を落とした?

1626年、さらに時代はさかのぼり「知識は力なり」の言葉で知られるイギリスの哲学者フランシス・ベーコンは鶏を冷凍保存する実験を行い、寒さから肺炎を起こし、亡くなりました。料理のために命を落としたともいえますが、彼が残した実験を重視する経験論は近代の調理科学ともつながっています。

「旨み」の存在は昔から気づかれていた

『美味礼讃』(1825年)の著作で知られるブリア・サヴァランはある温度で旨みのエキスが煮汁に溶けることに言及し、それを「オスマゾーム」と呼んでいます。近代で最も有名な料理人の一人であるアントナム・カレームも著作のなかでこの「オスマゾーム」に触れ、温度管理の重要さを説いています。

この「オスマゾーム」。現代でいうところの「旨み」物質と言い換えられるかもしれません。旨みという概念自体は1908年池田菊苗によるグルタミン酸の発見、1913年の小玉新太郎によるイノシン酸の発見を待たなければいけませんが、当時の人たちも目に見えない風味物質の存在に気がついていたのです。

「肉の表面を焼いて肉汁の流出が抑えられる」はウソ!?

肉を煮込む前に肉の四方を焼き固めれば肉汁=風味の流出を最小限に抑えられる──その概念を提唱したのが「リービッヒ冷却器」や「リービッヒの最小律」に名前を残すユストゥス・フォン・リービッヒです。その後、肉の表面を焼いても肉汁の流出が抑えられないことは簡単な実験によってすぐに否定されましたが、著名な料理人だったオーギュスト・エスコフィエがリービッヒの説を支持したことから、つい最近まで言い伝えられてきました。

「肉の表面を焼いて肉汁の流出が抑えられる」はウソ!?

「台所の神話」が崩壊?

さて、昨今、料理と科学の関係性が注目を集めたのはさきほどの肉汁の例のような「台所の神話」に科学のメスが入ったからです。「メレンゲをつくるとき、卵黄や水を入れると泡立たない」「緑の野菜を茹でるときは塩を入れると色が鮮やかになる」というのもその一つ。

例えばイギリスのシェフ、ヘストン・ブルメンタールは厨房で実験を繰り返した結果、野菜を茹でる際、塩を入れても入れなくても差はないことに気づきます。そして、料理好きで知られるブリストル大学の物理学者ピーター・バーラムと話す機会を得た時、彼は「塩は色味を保つ効果はないのでは?」とその疑問をぶつけました。バーラム氏は次のように答えたそうです。「遂に科学を理解するシェフが現れたぞ!」

このように「台所の神話」が解明されてきた背景には料理と科学の交流がありました。その中心にいたのがオックスフォード大学の物理学者で料理愛好家のニコラス・クルティです。彼は1969年にこう言っています。

「我々は金星の温度さえ測れるのに、スフレのなかで何が起こっているのか知らないというのは、文明として反省すべきだろう」

分子ガストロノミーの誕生

1992年、当時84歳だったニコラス・クルティは「Molecular and Physical Gastronomy」(分子・物理美食学)の国際ワークショップを開催し、料理人や大学の基礎研究者、食品工業の専門家などを集めて、料理の発展について論じました。この会議は現在も方向性を変えつつ受け継がれ、料理の楽しみを広げています。この流れのなかで生まれたのが「Molecular Gastronomy」(分子ガストロノミー)という言葉です。

分子ガストロノミーとは?

ニコラス・クルティと、フランスの物理化学者エルヴェ・ティスによって創設されたもので、科学者とシェフが協力し、料理のなかで起こるプロセスを分析することで、従来伝わってきた調理法などを見直すといったもの。ニコラス・クルティが亡くなったあと、この動きはエルヴェ・ティスに引き継がれます。

エルヴェ・ティスは「分子ガストロノミーは技術ではなく科学」で「料理人が取り組んでいるのは分子ガストロノミーではなく、分子クッキング」と指摘しました。

現象から出発してそのメカニズムを解明するものが「分子ガストロノミー」ですが、今の料理人がしていることは料理の成果を改善するために科学を用いている「分子クッキング」、というわけです。分かりにくい主張ですが、その頃、料理人の料理スタイルを表現するために「分子ガストロノミー」という言葉が誤って用いられたこともあり、エルヴェ・ティス教授は状況を整理すべく、このような問題を提起したのでしょう。

「分子ガストロノミーは死んだ」

一方、かつて「分子ガストロノミー」に協力していたシェフたちは彼らから離れていきました。シェフたちは自身らの料理スタイルは「分子ガストロノミー」とは関係がない、と共同声明を出し、前述のヘストン・ブルメンタールも雑誌『オブザーバー』のインタビューで「分子ガストロノミーは死んだ」と語っています。

あるいは「すべての料理は科学的なプロセスを含んでいるのだから、単にガストロノミーでいいのではないか」という意見もあります。しかし、分子ガストロノミーという言葉が死語になったとしても、料理への科学の応用は現在も続いているといえます。

真空調理は近年で最も重要なキッチンのイノベーション!?

料理への科学の応用、その象徴が「真空調理」です。1979年に生まれたこの調理法は「低温調理」とも呼ばれ、袋にいれた食材に100℃以下の水槽(お湯を貯める鍋などの容器)や蒸気によって均一に熱を加えるものです。食品科学の聖典と呼ばれる『マギーキッチンサイエンス』を著したフードライターのハロルド・マギーはこの調理法を「近年で最も重要なキッチンのイノベーション」と評しています。

始めこの調理法の恩恵に預かっていたのは、プロの料理人でした。温度制御できる加熱機器が高価だったためです。しかし、2012年に家庭向けの安価な「投げ込み式サーキュレーター」が発売されたことをきっかけに、ほかのメーカーも同様の製品を市場に投入。低価格化が進み、低温調理は家庭にも少しずつ普及しています。

それ自体は小さな変化だったかもしれません。しかし、これらの製品が登場することで、食の世界は確実に変化しています。

小さな変化が未来の食の可能性へ

どんな変化も始めは小さく、気づきにくいものです。少し科学から離れますが、例えばかつては食の伝承は親から子、あるいは地域コミュニティのなかで行われるものでしたが、今ではインターネットを使ってレシピを検索するのが普通です。その結果としていくつかの料理は失われたかもしれませんが、それを確かめる手段はまだありません。変化というものは時を経てから振り返ることで、初めて分かるものなのです。

では、小さな変化の積み重ねの先の食の可能性を想像してみましょう。例えば、AIが今日の献立を提案してくれる等のサービスにより、Amazon Goのような生鮮食品の宅配サービスの利用者も拡大していきます。宅配サービスが進化すれば、流通も大きく変わっていくでしょう。遠くから食べ物を運ぶのではなく、近い場所から宅配したほうが環境には有利です。そのため、食糧供給の安定や地域コミュニティを形成するための手段としてオープンエアな空間である都市農園が重要な役割を果たす可能性もあります。これらはすべて未来の食の可能性です。

小さな変化が未来の食の可能性へ

「未来の食」の可能性は無限大?

「未来の食」、という言葉からどんな姿を想像するでしょう?

例えば映画『2001年宇宙の旅』(1968年)で描かれていたのは、ストローで吸うタイプの食べ物やスプーンで食べるペースト状の食べ物でした。

その未来は一部、ソイレントのような完全栄養食品(それだけを食べれば生存に必要な栄養素をすべてまかなえる食品)といった形で実現していますが、すべてがそれに置き換わることは考えにくいですよね。

食は一見するとなにも変わっていないように見えます。科学がいくら進歩しても、人の意識はなかなか変わらないものだからです。リービッヒが提唱した「肉の表面を焼き固めれば肉汁の流出が抑えられる」という誤解が解けるまで、約100年の歳月がかかったわけですから。

でも、過去を振り返ると今とは確実に違うことが分かります。
さて、「未来の食」はどんな姿をしているでしょうか?

ライタープロフィール
樋口 直哉
樋口 直哉
作家・料理家。主な著作として小説『スープの国のお姫様』(小学館)、ノンフィクション『おいしいものには理由がある』(角川書店)、料理本『最高のおにぎりの作り方』(KADOKAWA)など。

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