400年来の天才登場

将棋は9×9のます目の中で駒を動かし、途中で駒を取ったり取られたりしながら、最終的には相手の玉(王様)を詰ませる(捕まえる)ことを目的とした、2人で対戦するゲームです。昔から今に至るまで、数え切れないほどのプレイヤーによって指され続け、その中には恐るべき天才も現れました。
現代の将棋界の天才といえば、平成14年生まれの若きプロ棋士、藤井聡太七段です。プロ棋士の資格を得る四段には中学2年、14歳の時に昇段。以来、将棋界で数々の最年少記録を塗り替えつつあります。

藤井七段の天才ぶりを端的に示すエピソードはたくさんあります。例えば玉を詰ますパズルである「詰将棋」を解くのが驚異的に速い。公開のイベントで、詰むまでに41手もかかる難しい詰将棋をちらりと見た後、頭の中で二十数秒考え、人間業とは思えないような速さで正解を導き出したということもありました。
藤井七段は棋士も参加する詰将棋解答の競技会において、小学校を卒業する段階で1位の成績を収めています。もし世界中の天才が集まって、数学の難問を何題も解くコンテストがあり、その中で小学生が優勝したとしたら、誰もが驚くことでしょう。そういう驚きの瞬間を、将棋ファンはリアルタイムでずっと目のあたりにし続けているわけです。
名人を超えたAI
藤井七段はおそらく、人間の中では最速で詰将棋を解けます。ただしその天才よりも速く詰将棋を解ける存在があります。それがコンピュータ将棋ソフト(AI)です。藤井七段が二十数秒の速さで解いた問題でも、AIは1秒もかからずに解いてしまうでしょう。
詰将棋という限られた分野では、AIは四半世紀前に人間を超えていました。しかし将棋は最終盤だけのゲームではありません。序盤、中盤、そして終盤の玉が詰む・詰まないの段階に至るまで、将棋はあまりに可能性が広く、茫洋としています。AIは人間の直観(大局観)には及ばず、将棋というゲーム全体では、人間優位の時代が続きました。

しかしハードの向上や、ソフトの技術革新によって、AIは次第に人間に追いついてきます。やがて夢でも見ているかのように、あっという間にAIは人間を超えていきました。人間の代表である棋士とAIとの真剣勝負は、AIが圧倒するようになります。そして将棋界の最高タイトル保持者である名人が敗れて、名実ともに人間はAIに超えられました。
その事実はどのようにとらえるべきでしょうか。
AIからも学ぶのが将棋道

「棋士よりもAIが強いのならば、棋士は不要になるのではないか?」
「人類の叡智の象徴である将棋の名人がAIに負けるのは、人類の敗北ではないのか?」
以前はそんなふうに、ネガティブにとらえる人がたくさんいました。
しかし現実に名人よりもコンピュータが強くなってみると、そうした考えは過去のものとなりました。棋士は変わらず将棋ファンが憧れる存在ですし、第一人者の羽生善治九段や、早熟の天才・藤井聡太七段などは、社会的にも広く尊敬を集めています。
将棋界は四百年の歴史を誇る世界です。盤外ではいくらか、保守的な面もあります。例えば座る席にも上下があり、下位の若者は年長の先輩を立て下座に就きます。
一方で、盤上の技術革新のほとんどは、新時代の若者によってもたらされてきました。将棋は勝ちか負けかがはっきりしています。多く勝つ者の優れた技術、思想が受容されていくのは自然であり、それがまた将棋界のよき伝統ともいえます。
AIが人間を超えたことを受け止め、棋士はAIから真摯に学ぶ道を選びました。「将棋道」というものがもしあるのならば、自分よりも強いAIを尊敬し、素直に学ぶことは将棋道にかなうものでしょう。
一方で、AIで研究しているだけでは、将棋には勝てません。盤の前に座って対局が始まれば、自分以外に誰も頼ることができない。それもまた、将棋界の変わらぬ伝統です。
AIをパートナーとして事前にどれほど研究していても、実戦ではいずれ必ず未知の局面が現れます。そこから自分の力でどう戦い続けられるかが、その人の実力です。
「藤井聡太七段はAIの研究によって強くなった」という見方があります。それは間違いではないでしょう。しかし、それは藤井七段の強さを構成する要素の、ほんの一部を見ているに過ぎません。
藤井七段はAIに触れる前から強かった。そしてそこまでの基礎を作り上げた上達法は、自分の頭の中で詰将棋を解くなど、古くからある伝統的な方法でした。
AIで再認識する将棋の奥深さ

藤井七段は先日、あともう1勝すれば史上最年少でのタイトル挑戦が実現するという大きな一番を戦いました。藤井七段はトップクラスの強敵を相手に勝勢を築き、あとは自分の玉が詰まないように逃げ切れば勝ち、というところまで進みました。
複雑極まりない局面で、観戦者のほとんどは難しい変化など読めません。将棋では、盤上で数十、数百もの選択肢が存在する中で、正解はたった1つということも珍しくないのです。
しかし観戦者には、藤井七段が正解手を指せば勝てることは分かっていました。それはほぼ誤りのない、AIのガイドを見ながら観戦できるからです。
残り時間がほとんどない中、藤井七段は大きな見落としをします。そして詰まないはずの藤井七段の玉は詰まされ、痛恨の逆転負けを喫しました。
詰む、詰まないを読むことにかけては随一で、公式戦勝率も8割を超える藤井七段もまた人の子です。ミスとは無縁ではありません。やっぱり将棋はあまりにも難しい。観戦者はその事実を再認識することになります。
そしてAIが読める手順を藤井七段が読めなかったからといって、誰も藤井七段を軽蔑などはしません。この奥深い分野で優れた技能を持つ棋士を尊敬し、その中で活躍し続ける天才少年を、改めて称えることになるのです。
ライタープロフィール

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生、山口県出身。東京大学将棋部在籍中より将棋書籍の編集に従事。東京大学法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力し、「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)『東大駒場寮物語』(KADOKAWA)、『天才藤井聡太』(文藝春秋)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)など。
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