ガーナの村を支援する元外交官。子供達が夢を見つけ、追い続けられる未来をつくりたい

ガーナの村を支援する元外交官。子供達が夢を見つけ、追い続けられる未来をつくりたい

ガーナの村を支援する元外交官。子供達が夢を見つけ、追い続けられる未来をつくりたい

ガーナ北部ボナイリ村で支援活動を行う、原ゆかりさん。村の子供たちの「未来」を変えるMY DREAMプロジェクトを立ち上げ、診療所や中学校を設立し、子供が健康的に学びを諦めることなく夢を追える環境を整備してきました。その思いをうかがいます。

ガーナ共和国の首都アクラから、飛行機と車で2時間。北部のコンボンゴ地区に、2,000人の小さな集落・ボナイリ村はあります。ここで、8年にわたり支援活動を行うのが、現地NGO法人MY DREAM.org共同代表の原ゆかりさん。日本の外務省から米コロンビア大学(公衆衛生大学院)に留学していた2012年にインターンで初めてボナイリ村を訪れて以来、関わりを持ち続けてきました。

▲原ゆかりさんとボナイリ村のおかあさんたち
▲原ゆかりさんとボナイリ村のおかあさんたち

原さんが現地の人々と立ち上げたMY DREAM.orgは、村の子供たちの「未来」を変えるためのプロジェクト。2017年に診療所、2019年に中学校を設立し、子供たちが健康的に学べる環境を整備してきました。さらに、村発のビジネスも育成。ガーナコットンを使ったバッグの製造・販売、ボナイリ産シアバターをガーナ国内のコスメブランドに卸す事業などを伸ばし、村の収益は大きく向上しました。収益の一部は作り手への還元と、新たなインフラ整備のプロジェクトに充てられ、永続的な運営につながるサイクルをめざしています。

そして、何より大きな変化は、村の子供たちが様々な「夢」を描くようになったこと。バッグを製造する縫い子さん、コスメブランドのトップであるガーナ人の女性起業家など、生き生きと働く身近な大人の姿に刺激を受け、自分もそうなりたいと語る子供が増えたといいます。

原さんが“MY DREAM”の名前に込めた、現地の子供たちの“夢”を応援したいという思い。それが、いよいよ花開こうとしています。ここに至る8年間の歩み、そして、これからについて原さんにお話をうかがいました。

この記事で想像できる未来

理想:
寄付に頼らず、村発のビジネスから得られる収益だけで、村の子供たちを取り巻く環境を改善していく

実現:
ボナイリ村の教育、保健・衛生環境を向上させる。子供たちが夢を見つけ、追いかけ、叶えていくことができる環境をつくる

もしかしたらの未来:
教育を受け、健康に育った子供たちが夢を叶え、ボナイリ村のコミュニティの発展に貢献する。そんなプラスの連鎖を生む、持続可能なエコシステムを実現する

プロフィール

原ゆかりさん
株式会社SKYAH(スカイヤー)CEO、ガーナNGO法人 MY DREAM.org共同代表。2009年に東京外国語大学を卒業後、外務省に入省。その後、MY DREAM.orgを設立し、ガーナ共和国ボナイリ村の支援活動を開始。2015年に外務省を退職後、三井物産ヨハネスブルグ支店に勤務しながらNGO活動にも尽力し、アフリカ企業での勤務を経て2018年に独立。

99%ガーナ人主導のプロジェクト

――原さんが共同代表を務めるMY DREAM.orgとは、どのような活動をする団体なのでしょうか?

原:ガーナのボナイリ村の開発を担う現地NGO法人として2012年に設立しました。目的は、村の子供たちが夢を見つけ、追いかけ、叶えていく環境をつくっていくことです。組織体制は、診療所などに関わる「保健・衛生チーム」、学校などに関わる「教育チーム」、そして、「村の収入向上プロジェクト」の3つ。全て、村人たちが主体的にプロジェクトの運営にあたっています。

▲教育チーム、保健・衛生チームのメンバー
▲教育チーム、保健・衛生チームのメンバー

――「主体的」というのが、一つのキーワードでしょうか。MY DREAMは、あくまで村の人たちが主導するプロジェクトであると。

原:MY DREAMは99%が、現地のガーナ人による取り組みです。プロジェクトの企画立案や診療所の運営にはボナイリの村人が主体的に関わり、地方行政もしっかり巻き込むことで永続的に活動が続けられる仕組みづくりをめざしてきました。当初の2年間は日本やアメリカの支援者からの寄付に100%頼っていましたが、徐々に事業収益からの割合が増えていて、2018年度には7割を超えました。活動開始から10年にあたる2022年までに、寄付から完全に脱却することが大きな目標の一つですね。

――活動を長く継続していくためには、財政面も含めて自立していくことが望ましいですね。

原:はい。いつか、寄付はなくなるかもしれません。村の人たちは、当初からそのことに危機感を持っていました。「収入向上プロジェクト」を立ち上げたのは、寄付がゼロになっても活動を持続していける体制をつくるためです。

例えば、村には当時からシアバターという植物性油脂を製造する伝統産業がありました。しかし、それを化粧品に加工する工場は外国にあり、原材料の販売収益しか得ることができていませんでした。売価を上げるためには、国内で商品として最終化し、付加価値をつけて海外に輸出することが望ましい。そこで、村で生産したバターをガーナのコスメブランドSkin Gourmetに卸し、高品質のハンドクリームなどに加工してもらうようにしたんです。

▲シアの実の種から手作業でシアバターを精製。時間をかけ、高い保湿力を生み出す
▲シアの実の種から手作業でシアバターを精製。時間をかけ、高い保湿力を生み出す

原:ほかにも、村の女性たちが手作りしたバッグなどを海外に輸出販売しています。こちらもチャリティー品ではなく商品として魅力的なものをつくろうと、2014年から縫製スキルの向上をはかっていきました。それまでも、ほかの団体の技術支援を受けたことで手回し式ミシンを扱える村の女性は多かったのですが、品質にはバラつきがあった。そこで、スキルの底上げを目的にコンテストを開催し、上位者には自分のブランドを立ち上げられる特典を用意しました。

目標ができたことで縫い子さんたちは目の色が変わり、自ら積極的に学ぶ人も出てくるなどして、明らかに品質が上がっていきました。ちなみに、そのコンテストで入賞した3名の方はブランド立ち上げの準備に入っていて、自らデザインしたバッグの試作品も出てきています。

▲ガーナコットン縫い子チーム。アフリカンプリントの布で、バッグやエプロンなどを手作りしている
▲ガーナコットン縫い子チーム。アフリカンプリントの布で、バッグやエプロンなどを手作りしている

――現在は日本やアメリカにもバッグを販売しているということですが、海外への販路はどのように開拓していきましたか?

原:2018年にSKYAHという日本法人を立ち上げ、そこでボナイリ村の布製品の輸入販売などを手掛けています。今では彼女たちの作品がMY DREAM.orgの重要な財源になっていますね。

また、2019年12月にはアフリカの優れたブランド品を届けるためのウェブサイトProudly from Africaも開設しました。こちらのウェブサイトで取り上げる商品は、あえて厳しい基準で選定し、MY DREAM.orgの活動とは切り分けています。今では独自のブランドを立ち上げ、Proudly from Africaに作品を送り込むことが、ボナイリ村の女性たちの目標にもなっているようです。

▲Proudly from Africaのウェブサイト
▲Proudly from Africaのウェブサイト

――Proudly from Africaのウェブサイトには、アフリカンプリントの色鮮やかなバッグや繊細でユニークな線を生かしたジュエリーなど、個性的で高品質な商品がキュレートされています。いずれも魅力あふれるブランドですね。

原:アフリカには、ユニークでお洒落な、唯一無二のブランドを立ち上げているつくり手が大勢います。今後、そうしたブランドが村から生まれ育っていけば、子供たちも夢を持ちやすくなると思うんです。地元の縫い子さんたちが、子供たちの目標になっていく。実際、自信を持って生き生きと働くおかあさんたちの姿を見て、自分も将来はものづくりの仕事に就きたいといってくれる子供たちが明らかに増えています。

――MY DREAMという名前に込められた願いが、実現しつつあると。

原:MY DREAM.orgは発足当初から、村の子供が夢を見つけ、追いかけ、叶えていける環境を作ることをめざしてきました。それには教育や保健・衛生設備を整備するのと同じくらい、身近なところに憧れの具体像があることも重要です。縫い子のおかあさんだけでなく、先ほどお話したSkin Gourmetの代表を務めるバイオレットはまだ30代の起業家。同じガーナ人である彼女の活躍は、子供たちの刺激になっています。

――身近にめざすべき具体像があると、頑張ることの大切さを実感でき、勉強を頑張る原動力にもなりそうです。

原:子供たちの様子を見ていると、本当にそう実感します。私たち大人がやるべきなのは、そんな子供たちが夢を追いかけていけるよう、診療所や学校を整備し、健康に学べる環境をつくっていくことです。

そして、夢を叶えた子供たちが今度は、ボナイリ村のための活動やビジネスに貢献していく。この循環こそが、村の持続可能性につながります。遠回りのようで、じつは一番の近道なんじゃないかと思うんです。

▲肩紐の調整が可能で、ショルダー掛けも斜め掛けもできる「あづまバッグ」3,000円。MY DREAMのウェブサイトで購入できる
▲肩紐の調整が可能で、ショルダー掛けも斜め掛けもできる「あづまバッグ」3,000円。MY DREAMのウェブサイトで購入できる

「恩返し」のための幼稚園設立が、10年におよぶプロジェクトの原点に

――原さんがボナイリ村と関わるようになったきっかけを教えていただけますか?

原:最初にボナイリ村を訪れたのは2012年。現地でボランティア活動を行うNGO(非政府組織)の一員として村に入りました。当時は外務省に籍を置きつつ、省内の留学制度を使ってアメリカの大学院に進学し、母子保健や国際保健などを研究していたのですが、大学院からのインターンという形でNGOに参加することになったんです。当時の私は血気盛んで「自分なら何か貢献できるはず」と信じ込んでいましたね。

――実際はどうでしたか?

原:それが、情けないくらい何もできなくて。特に最初の数週間は文化や生活、食事の準備まで現地の人々から手取り足取り教わるような状況。おまけに言葉も通じません。ガーナは英語とチュイ語という言語が公用語と聞いていましたが、実際にはダグバニ語という現地語が使われていました。そこで改めて、「公用語」=「みんながしゃべる言葉ではない」ということを痛感しましたね。そんな調子ですので、貢献どころか、逆に村人からボランティアを受ける毎日で……。

ただ、そんな無力な私に対しても村の人はやさしく、温かく接してくれました。ボナイリ村での活動は3ヵ月の予定でしたが、その間になんとか恩返ししたいという気持ちが膨らんでいったんです。

――その思いが、MY DREAMの活動へとつながっていったわけですね。

原:はい。まずは、村のみんなと話し合いの場を持ち、「困っていることはないですか?」「村に必要なものは何ですか?」と聞いてみたところ、多かったのが「幼稚園が欲しい」という意見でした。当時の村には木陰を利用した吹きさらしの幼稚園しかなく、雨期が来ると子供を数ヵ月も預けられないことがありました。その間は大人たちも子供の世話に追われ、落ち着いて仕事ができないと、とても困っていたんです。

そこで、ウェブサイトを立ち上げて寄付を募ったところ、日本円にして30万円ほどが集まり、2012年11月に園舎を建てることができました。設立後は村のみんなが主体的に運営にあたってくれ、これまでに1,000名近い児童が卒園しています。

▲2012年設立のMY DREAM幼稚園
▲2012年設立のMY DREAM幼稚園

――恩返しを果たし、インターンが終了したあとも、原さんはボナイリ村との関わりを持ち続けたんですよね?

原:アメリカの大学院を卒業して外務省に戻ったあと、在ガーナ日本国大使館への配属を志願しました。勤務地は首都のアクラでしたが、月に一度はボナイリ村へ通う日々がしばらく続きましたね。

――なぜ、そこまでボナイリ村にのめり込んだのでしょうか?

原:村に愛着があったのはもちろんですが、幼稚園ができてからも運営や手続きの面で困っていることを知り、引き続きサポートしたいと思ったんです。例えば行政機関に陳情に行く際のレターの書き方などは、経験がない村人たちには難しく、私が手伝うことになりました。もともと幼稚園を設立したのは恩返しのつもりでしたが、それによって村との関係が続き、MY DREAMプロジェクトへとつながっていったんです。

――幼稚園だけでなく、教育や医療にも力を入れていこうと。

原:はい。NGOでのインターン中、私をホストファミリーとして迎え入れてくれたザックことZakaria Sayibuは、もともと村の子供たちの教育に対して強い思いを抱いていました。彼の話を聞いているうちに、プロジェクトの発想が生まれていったんです。

そこで、ザックが共同代表として現場のリーダーになり、子供たちが健康に学べる環境をつくっていこうと、MY DREAM.orgを立ち上げました。その後、私自身は外務省を退職、民間企業への転職、会社設立などの変遷はありましたが、環境が変わってもボナイリ村との関わりは持ち続けています。

――それから8年。MY DREAMの活動は、様々な成果を生み出していますね。

原:2017年にボナイリ村で初めての診療所が、2019年には待望の中学校が完成し、現地のみなさんが運営にあたっています。診療所ができたことで遠い街まで行かなくても診察にかかれるようになり、妊娠中の女性が検診や予防接種を受け、安心して出産に臨めるようになりました。また、それまで村には小学校しかなく、その先へ進学できる子供は限られていましたが、中学校ができたことでドロップアウト率が大きく下がりました。ここから、将来、村を引っ張っていくリーダーが生まれることを期待しています。

▲MY DREAMクリニック。現在では村外での往診にも対応している
▲MY DREAMクリニック。現在では村外での往診にも対応している

ドライバーは現地の住人。「もう、こなくて大丈夫だよ」といわれたい

――新型コロナウイルスの感染が広がる前までは、頻繁にボナイリ村を訪れていたのでしょうか?

原:いえ、プロジェクトが順調に回り出してからは、意識的に行く回数を減らしてきました。ガーナ駐在員時代は1ヵ月に1度くらい、外務省退職後の2017年以降は3、4ヵ月に1度、2019年以降は年1、2度しか村に行っていません。それも、私が村のみんなに会いたいから行っているだけで、もはやお手伝いすることは特にないんです。「おかえり。ゆっくりしていきなさい」と、孫の帰省を喜ぶように、やさしく迎え入れてくれますね。

――なぜ、あえて行く回数を減らしたんですか?

原:外国人である私が、いつまでも表に出過ぎるのは望ましくないからです。外国人が旗を振ったり、露出しすぎてしまうと、支援を受ける側の人たちは受け身になってしまいます。主体的でなければ持続可能な活動にはなりません。ボナイリ村の方々がドライバーシートに座るべきなんです。ですから、私はプロジェクト発足当初から「もう、こなくて大丈夫だよ」と、村の人にいってもらうことを一つの目標にしてきました。

――最近は、それが実現しつつあると。

原:はい。寂しくもありますが、嬉しいことですね。世界的なコロナ禍により、ボナイリ村の経済活動やものづくりも一時的に停滞してしまいましたが、現地から助けを求める声は一切ありませんでした。それどころか、すぐに前を向き、自発的に様々なアクションを起こしています。

例えば、3月にガーナで初の新型コロナウイルス感染者が確認されると、MY DREAM.orgの現地メンバーから「ガーナコットンでマスクを作り、村に配りたい」という提案がありました。その後、すぐに材料を調達し、縫い子のお母さんたちに作ってもらったマスクを村の高齢者と診療所に配布したんです。評判は上々で、首都アクラにある会社さんからも「1,000枚単位でマスクを作ってもらえないか」とお問い合わせをいただくなど、村外からも需要がありました。

ガーナコットンを使った、おしゃれなマスク

――ガーナコットンを使った、おしゃれなマスク。確かに需要ありそうですね。日本でも欲しい人は多いんじゃないでしょうか。

原:コミュニティの外に売るための許認可も取り、既に生産に入りました。密にならないよう工房に集まる人数を5人以内に制限し、ローテーションを組みながら1,000枚の需要に応えるものづくりをお願いしています。この新しいガイドラインを守りながら、バッグなどの生産もそろそろ再開できそうです。

このように、村人たちのアクションがどんどん先行していて、私のほうが引っ張り上げてもらっているような状況ですね。主導権は完全に彼らが握っていて、私はついていくのに必死。今回の件で改めて、ボナイリ村のみんなのレジリエンス(回復力)の高さを感じました。

――MY DREAMのプロジェクトはあと2年で区切りを迎えるということですが、これからの展望を、最後にお聞かせいただけますか?

原:2022年までに寄付から卒業するという目標は、間違いなく達成できる確信があります。その後、MY DREAM.orgをどうしていくかは村のみんなの手に委ねたいと思いますが、私は引き続き、ボナイリ村の製品を売るチャネルを維持し、さらに広げていきたいです。

また、MY DREAM.orgの集大成としてやってみたいのは、10年間の活動を総括し、村人自身が発信する場を作ること。これまでの活動をサポートしてくれた人たちに御礼を伝えることにもなると思いますし、彼らの経験が青年海外協力隊など、これから開発途上国での課題解決に従事する人たちの参考になるかもしれません。

ですから、例えばこうしたメディアの取材も、本当は村のリーダーに自身の言葉で語ってもらいたいんです。そして、これはひそかな願望ですが、いつか『Forbes Africa』の表紙をボナイリ村の人たちに飾って欲しいですね。

ライタープロフィール
榎並 紀行
榎並 紀行
編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。
ウェブサイト:50歳までにしたい100のコト(外部サイト)

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